夜明けより

ご都合主義。

振り返らずに死者の国を出れば死した妻を返してやろう。と言ったのはどこの神話の神様だったっけ。
なんだか似たような話は世界中にあって、結局のところ人間見てはいけないものほど見てしまうものだ、と言う話なんだろうけど。

「振り返らずにここを出たら、全部元に戻っていればいいのに」

失われたものすべてが、元に戻ってくれたら。
きっとそううまくはいかないだろうけど。そう望むくらいはいいじゃないか。
ぽつり呟く声に返る声も、もうないのだ。それに思い至ると同時に言い様の無い怠さとどこか他人事のような焦燥に足を止めそうになってはその度にそれらを振り切るように暁人は歩みを進める。

ひとり石段を踏み締めて登っていく。黄泉の国まで降りてきたけれど、神様なんてものに遭ってはいない。そもそも本当に此処が黄泉の国かさえ確かじゃない。
此処にいたのは元凶の般若と連れ去られた麻里。それから麻里を迎えにきた両親だけだ。とうに世を去った両親がいるから黄泉なのか、それともそれに近しい何かなのか。結局誰が説明してくれるわけでもないそれに今更暁人がこだわることはない。
帰り道が用意されていると言うことは僕は死者の仲間ではないと見なされたのか。この道の先は本当にいつもの世界なのか。つらつらと繰り返す答えの出ない問をもてあましながら、歩みは止めない。なんの導きもない、ただ道が続いているそれを標として進むだけだ。

「やっぱりさよならは言えなかったなあ」

言葉を選んだ訳じゃないけど、口をついて出たのが別れの言葉じゃなかったことさえなんだか僕ららしい。たったこれだけの時間しか一緒にいなかったのに、この胸に誰より大きな穴を開けていったみたいだ。
不遜で傲慢かと思いきや褒めるのが上手で。声しか聞こえないのにに感情が分かりやすい男だった。それなりに打ち解けてしまえば、意外と同調する部分もあり、引き剥がされれば身の内の隙間が落ち着かず不安になった。
今も、そうだ。

漠然と振り返らずに進まなければいけないと感じるけど誰かに明示された訳でもない。そういうものだとどこかに刻まれているのかもしれない。それこそ魂に、なんて。振り返って掛け降りてしまいたくなる。もう別たれてしまった側にいて欲しかった人達と共にありたいと嘆いている。

「でも、約束したしね」

ちゃんと生きていかないといけない。未練がましく振り返りたいと思う自分も確かにいるけれど、それは仕方がない。胸の空虚を宥めるように胸に手を当てればそこは確かに鼓動する。生きている。だから、足を止めることはしなかった。

最後の鳥居を前に思わず足を止める。後ろ髪を引かれる思いを否定することは出来ない。きっとこれからもずっと心の隅に居座り続けるんだろう。でも、今までは見ないふりをしてきたそれを今は認めることができる。それが弱さだけじゃないと知っているから。

鳥居の先は白い光で満ちている。
また、いつか。別れじゃなく、再会を思う。
それまで彼らに恥ずかしくないように生きよう。生きていこう。境目を越える一歩を踏み出せば、目を開けていられない程の光に飲み込まれた。

*

「伊月さん?」
「……え?」
「目が覚めたんですね。ここは病院ですよ。先生呼びますね」

白に囲まれて目が覚めた。馴染みがある景色だ。ベッドから見たことはなかったけど。点滴を確認していたらしい看護師さんが医師を呼びに離れていく。
左腕には点滴の針が刺さっているし他は所々包帯が巻かれていたりガーゼが貼られている感覚があるだけでそれほど大きな痛みはない。
右手を少し持ち上げるのも少し億劫だ。包帯が巻かれていて見えないが手のひらに靄はかかっていない。視界の端にも漂ってはいなかった。それをぼんやり眺めているうちに看護師の呼んだ医師がやってきたらしい。まだ若そうなのに少し草臥れた様子の医師に軽い診察を受けた。

「伊月さんは事故に遭ったんですが、覚えていますか?」
「事故?……あ、バイクで」
「そうです。スクランブル交差点でタクシーに衝突されて運ばれてきたんです。」

なんだ。事故にあって長い夢を見ていただけか。それにしてはずいぶんリアリティのある夢だったな。そう思ったけれどやはりというかなんというかやっぱりそうはいかなかった。

それから医師と看護師をはじめ他の患者達やテレビの言うことには、どうもあの長い夜は確かにあったらしい。本当にあの時渋谷に居た人間は一斉に昏倒したのだと言う。
意識を取り戻すまでには各々に違いこそあれどあの場にいた誰も彼もが意識を失った。運悪く事故や火事に巻き込まれてしまって運び込まれた人間も少なくはないらしく、そしてそのうちのひとりが僕だと。医師が疲れた様子なのも頷ける。渋谷の結界の外でも近い方の病院だ。昏倒者の中でも急いで処置が必要そうな人間が大量に運び込まれたはずだ。

それから、麻里のことも聞かされた。一斉昏倒事件の翌朝に息を引き取っていた。
僕の意識が戻るのに三日かかったらしく、病院から連絡を受けた遠縁の親戚は葬儀や手続きの諸々を手配しながら僕が目覚めるのを待ってくれていた。遠方に住んでいるため普段殆ど関わりがないのに迷惑を掛けてしまったと謝罪と感謝を伝えると、事故に遭ったのだから無理をするなと言われてしまった。むしろ葬儀は少し延ばした方がいいんじゃないかと気を遣ってくれた。今は多少は融通がきくから数日とはいえ気持ちを落ち着けてからでもと勧められたが、暁人は先延ばしにするつもりはなく、手続きを勧めてくれるようにお願いすると何かを堪えるような顔をしつつも頷いてくれた。
遠方からわざわざ飛んできてくれるような人にそんな顔をさせるのは少し胸が痛むけれど、麻里との別れはあの夜に済ませたのだから潔く送り出してやるべきだろうと思うのだ。それはいつも突然でこんな風に選ぶことすらままならないことを思えばまだましなんだと嘆く自分を宥めながら。

三日も目が覚めなかったこともあり退院までに色々検査を受けたり事故の事情聴取に警察官が来たりと忙しなく、あっという間に通夜も葬儀も終わってしまった。
親戚にもだいぶ心配はされたがもう成人しているし、無理はしていないからとちゃんと伝えた。こう立て続けに色々と起きている身だ、安心は出来ないだろうけど。それもあってか何かあればきちんと頼るようにと子供のように暁人にしっかりと言い聞かせてから慌ただしく帰るのを見送った。
そうしてバタバタと足早に日々が過ぎていく中でやっておかなくていけないこともいくつかあった。

「まずは、引っ越しかな」

通りがかった不動産屋のガラスに張り出された賃貸の物件情報が目についた。
麻里が目覚めてまた一緒に暮らすんだからと一念で借りた部屋はひとりではもて余してしまう。ルームシェアをするにも仲の良い友人は彼女持ちばかりだ。皆卒業も近い今、誰かと一緒に住むなら友人なんかより彼女とだろう。しばらく前にそのための春からの新居探しをしていると話している奴がいて、周りも軽いくせにちゃんと考えてるんだなって感心したり、ちょっと悔しいのかからかったりしていた。
ここからまた始めるんだという言葉を麻里は嫌がっていたんだっけ。置き去りにした気持ちを追従したあの夜の。きっともっと麻里と向き合って言葉を尽くしていればよかったんだろう。でも、出来なかった。身の内に廻る思いを口にするのは弱さの言い訳のようで、自分にはとても。でも多分それでもよかったのに。麻里はそれを望んでいたのに。たらればばかりだ。

「もう少し、一緒にいて欲しかったな」

溜め息と共にふと口にしたこれはどちらへの言葉だろうと思った。考えないようにしていたのはわざとなのに。分かっている、勿論両方だ。けど、ほんの少しだけ一緒にいたKKをこんな風に思うなんて。
最初の出会いは一方的で、選択肢なんてあってないようなもので、なんなんだこいつって思ってたはずなのに。
もう影を纏うこともない右手を見ては寂しく思う。軽口も減らず口も怒声も、真剣な声も自分の内側で響くそれがなくなったことの方がもう違和感で、寂しい。
ひとりには広い部屋に帰るよりあの渋谷の夜にたったひとりとして残されたことよりも、今あの声が聞こえて来ないことがひどく寂しい。
大変だったけれど唯一無二の相棒と駆け抜けた夜は楽しくもあった。

「大事なことは大抵終わってから気付くんだよね」

結局いつもそうだったし、多分これからもそうなんだろう。よくも悪くも三つ子の魂百までと言われるくらい変わるのは難しいものだから。

ほぼ元通りなのに致命的に変わってしまった日常に慣れるのは早かった。
なら先延ばしにしていた彼との約束を果たそうと取り敢えずあのアジトヘ足を向けた。病院で目が覚めた後、バッグの中にはあのパスケースが入っていた。あの夜凛子さんから手渡され、KKから託された約束が確かにあったと主張するみたいに。
あの部屋に何か手掛かりくらいあるはず。例えばエドと連絡がつけば何かしらは分かるだろうと踏んで、革のパスケースを手に渋谷へ向かっている。
バイクは修理中だしそうでなくとも病み上がりに運転なんてというわけで電車で。渋谷駅のホームで人混みに押し出されるように電車を降りる。あの夜、乗客の消えた電車を前に未だに迷うと言ったらKKはもう俺には関係ないと言ってたっけ。
渋谷のスクランブル交差点からスポーツ街を通り病院へ。429通りを渡り、途中の神社で柏手を打った。変わらずネオンが煌々と光っている神社裏のホテル街を抜けてアジトへ。
あの夜と同じ道をひとりで辿る。あの日の言葉が聞こえるような気がした。まあこの時の会話はお互い散々なものだったけど。
日が落ちて少しの時間帯を選んだのはなんとなくあの夜を思い浮かべたから。怪奇現象と言えば夜、みたいな。
そうしてたどり着いたアジトのあるマンションはやっぱり当然そこにあって、あの日と同じく部屋の前にも乱雑に物が積まれている。これ管理会社に怒られないのかな。引き払われてはいないらしい。流石にあの事件が終わってすぐに引き払う余裕はないだろうと思ってはいたけど実際にここに立つまでは少し不安でもあった。
あの日とは違って扉に札はない。ドアノブに手を掛けて期待せずに回すとあっさりと回って開いた。

「鍵……開いてる」

あれ、でもあの夜も鍵自体はかかってなかったんだっけ。誰かいるんだろうかとそのまま扉を引く。玄関ににあったのは乱雑に脱がれた革靴だ。エドだろうか。話に聞く限りはデイルは大柄らしいからサイズが合わないだろうし。とにかく誰かがいるみたいだ。玄関から声をかけても出てきてくれるかはわからないから勝手に上がることにした。

「お邪魔します」

スニーカーを脱いで揃える。ついでに革靴も向きを揃えておいた。

突き当たりのドアを押し開くとやっぱりあの夜と同じくなかなか荒れた部屋で安堵した。万が一そうじゃなかったら本当にただの不法侵入だからだ。
プロジェクターの電源は切られているが他の大量のモニタは各々の画面を表示している。でも逆側の奥まで見ても誰もいない。靴はあったのに誰もいないなんて。どうしようか。誰かが来るのを待つ?誰も来なかったら?出直そうか。

どうするか悩んでいるとふとソファの前のテーブルに何かメモが置いてあるのに気づいた。河童の本に貼られた大きめの付箋にはただ電話番号が書かれていた。あの夜には無かったものだから誰かがあの後書いたんだろうけど……鳴らしてみようか。
他に手掛かりもないしとスマホにメモの番号を打ち込みコールボタンを押した。呼び出し音がするけれど、しばらく鳴らしても相手が電話に出ることはなかった。まあ知らない番号から掛かってきても出ないよね普通。さて、振り出しに戻ってしまった。どうしようかな。
そういえばエドに繋がった公衆電話が一ヵ所だけあったっけ。そっちを当たってみようか。通りがかりにあった公衆電話にも相変わらず依代のペイントがされたままだったから転送機もまだ撤去されてはいなさそうだ。
あれ、でもテレホンカードってどこで売ってるんだろ。それに番号は散々押されたものと同じだったろうか。まあ行ってから考えようかな。魂の回収の役目を終えたのに今更使われれば何かしらの反応はするはずだ。
今度こそ部屋を後にするため玄関へ向かおうとした時、唐突に玄関の扉が勢いよく開いた。

「おし、間に合ったな」

急いで来たのか少し荒れた呼吸だったけど、知っている声だった。でももう聞けないはずだ。
ぽかんとその男を見るとにやにやと唇の端を上げている。

「よう暁人」
「KK……?」

まるで昨夜会った友人と翌朝に会うような気軽さで名前を呼ばれた。
あの夜の終わりに離れたはずの彼が、目の前にいると言う予想外の事実に固まる。意味が分からない。それでもじわじわと溢れだしそうになるものを押し込んで耐える。でもやっぱり、無理。

「おいなんだよ、泣くなよ」
「なんで」

あの黎明でさよならしたはずのKKが立っていた。失ったはずの肉体を纏って。ぼたぼたと涙が溢れて落ちる。続けられない言葉を必要ないと言うように当たり前のように側に来て、当然のように抱き締められた。

「何でだろうな。解らんが、まあ俺も生きてた。で、お前ならいずれここに来るだろうと思ってた」

思ったより早かったなとぽすぽすと軽く背中を叩き後頭部を撫でられる。完全にあやされてるでしょこれ。でもやっぱり言葉にならないなにかはまだ止まらなくてKKのシャツに吸い込まれた。離れたくなくてパーカーの裾をぎゅっと掴んだらどこにも行かねえから泣き止めよと困ったように笑って口にするから余計に泣き顔を見られたくなくて暁人は暫く顔を上げられなかった。

2022年11月12日